2012年4月14日
なぜか山小屋にいると、朝、目が覚めると真っ先に大をもよおす。
目が覚めた途端である。
不思議に毎朝、快便なのである。下界では必ずしもそうではない。
澄んだ水と空気が関係あるのか、どうか。
右の出っ張りがトイレ。
小屋のトイレは汲み取り式である。通称ボッチャン式である。
だが、お釣りは来ないように、うまく設計してある。
便器は知り合いの産廃捨て場から拾ってきたものだが、きれいだ。
落とし所が直径10センチほどの穴になっており、
周りを汚さないように落すのが、技の見せどころなのだ。
小屋を建てた当時、見せかけだけでも「水洗」にしようと、
トイレの外壁に水タンクをつけ、トイレ内でヒモを引くと、便器に水が流れる仕掛けを作った。
水は一応流れたが、水流が弱かったうえ、ヒモを元に戻すバネが錆ついて間もなく壊れてしまった。
以来、便器のそばに水を入れたバケツを置いて、汚れたら水を流してゴシゴシやるのだが、
それもほとんど必要ないほどに、毎回10センチの穴に的確に落せるようになった。
下界のように、ゆるみがちでは、なかなかそうも行かない。
× × ×
「どんなものを食べているか言ってみたまえ、君がどんな人であるかを言いあててみせよう」とい名文句で知られるブリア-サヴァランは著書「美味礼讃」の中で、
われわれは文明人をだいたい三つの種類に分けることができる。規則正しい人、便秘がちの人、ゆるみがちの人で、文学者をこの三つに分けると、規則正しい人は喜劇詩人に、便秘がちな人は悲劇詩人になり、ゆるみがちな人は挽歌や牧歌を書く、と言っている。
すると、小屋に住んでいたら、小生も立派な喜劇が書けるかも。
というか、ともすると、下の畑に肥だめをつくって資源の有効活用ができないかしら、
などとそっち方面に思考が傾いてしまうのは、もともと文学の素養がないから、かしら。